バレヱ  ライモンダ

初台までバレエを見に行った。学生割引だかなんかで半額だった。

正直、何を楽しめばいいのかわからなかった。
と、いうよりも、何を楽しむべきかレクチャーしてもらわなければ楽しめないと思った。

休憩時間なんかに聞き耳を立てていると、くるくる回ってすごい!とか、足が綺麗!とかいったような感想が聞こえてきたが、それでは戦後に流行ったラインダンスとたいして変わらない。

100年以上前が初演の作品がまだ残っているのは、何かしら見るべきところがあるからなんだと信じたいが、自分にはわからなかった。

なんかどっかの美女がフィアンセの王子様と離れ離れになって夢に見るほど悲しかったのよ(第一幕)。サラセンの人に求婚されたりしたけど断って、ちょうど十字軍の遠征から王子様が帰ってきてサラセン野郎を決闘で殺して(第二幕)結婚式だよ大団円(第三幕)。

というごく短く説明できて発展しそうもないストーリーを正味2時間もかけて表現したのには恐れ入る。そのためかどうか知らないが、決闘シーンのある2幕を除いてストーリー性が希薄だったかな。

女性バレエダンサーは男性が手で支えて手動で回転するのかぁ。とか細かいところはおいといて、大まかなところでの感想がいくつか。

なんだか、バレエ自体があまりにも音楽に依存していると感じた。特に第二幕なんかは、サラセン野郎があれやこれやと珍しい踊りを見せて求婚するんだが、赤い衣装の人が出たらこの曲調、青い人はその曲調、と決まっているような感じで、なんだかバレエが音楽の説明にしかなっていない気がした。他のところでも、音楽が盛り上がってきたところで動きが派手になる、といった具合。

なんか素材があって、それを音楽として表現しようとしたときに捨象されたものを拾って集めてこねくり回してバレエにしたという感じ。これでは本末転倒だけどね。
音楽の説明にはタイトルとあらすじだけあれば十分で、目の前で展開されるバレエは、むしろ音楽から想起されるもろもろを制限するだけになっているような気がした。音楽が主と考えれば、(そのよしあしはともかく)バレエは曲の抽象度を下げる役目を担っているっていうのはすんなりわかる。が、バレエは音楽なしでは成立しない。バレエはせりふがない、ということで言語から解放された抽象度の高い表現、のはずなんだけど、その代わりに音楽に強く依存するわけで、実は言語によって表現されるものと同じくらい具体的なのかもしれないね。まぁテキトウなこといってるんだけどさ。

と、こんなことを考えながら見ているから楽しむべきところがわからなかったのかもしれないが、自分はどうせ抽象度の高い表現に触れても理解できない側の人間なので(捨象されたものを想起するのが正しい楽しみ方なのか?それとも所与のものを、するめを噛み締めるがごとく味わうのが正しいのか?)、観劇してもこうやってあれこれ考えるのが楽しい。

実際、バレエって、どうやって楽しむんだろうか。バレエをいろいろ見ていることが前提で、他との類似、逸脱を楽しむ?それとも、オペラやクラシック音楽をいろいろとたしなんでいることが前提でそれらとの手法の違いと類似を楽しむ?自分はそのどちらも蓄積が圧倒的に不足しているが、そういう人にはやっぱり足が綺麗とか、そういう楽しみしかないんじゃないだろうかなぁ。自分にはやっぱりわからんわ。くるくる回ってすごいとか、だれそれさんえぇケツしてる、から始まってあれこれ見始めて蓄積を積んではじめてバレエそのものとか、振り付けの違いとか、楽しめるんだろうか。
蓄積がなければわからない芸術ってのは、それだけでレベルが低いと思ってしまうのだが、いわゆるクラシックな芸術ではその辺どうなんだろうかねぇ。ん、前提となる条件が少ないほどエライっていうのは、一部の特定の人にしか通用しない思想なのか?
なんだかんだいっても、前提を必要としない抽象画だってわからないんだから(わからないことをわかって楽しむ?)、自分には何も芸術がわからないということになってしまうわ。実際わからないんだろうな。

楽しみ方がわからなければ、結局、”ハイソ”なお趣味、見ること自体がステータス、というところに行き着いてしまうが、それって、低俗だよな。高尚を装おう低俗。まぁ、スポンサーとかパトロンとかはそういう感じなのかな。

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